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【建築史部会】第7回建築史部会研究会報告(質疑応答追記)

開催日時:2023.03.31 00:00


2021年11月30日

建築史部会では、「独楽寺から中国遼代建築を語る」をテーマとした、オンライン国際講演会を開催した。

日時:2021年10月30日(土)13時30分~16時30分

主会場:大阪科学技術センター700号室

分会場:(日本)九州大学、東京大学、早稲田大学、東北大学

(中国)天津大学、北京大学、重慶大学、ハルビン工業大学(深圳)

(韓国)明知大学校、漢陽大学校

(台湾地区)台湾国立芸術大学

参加者:109名

 

プログラム

講演:丁垚(中国・天津大学)

「独楽寺から中国遼代建築を語る」

司会・通訳:李暉(奈良文化財研究所)

 

新型コロナウイルス感染症の蔓延により、約2年ぶりの公開研究会の開催となった今回は、建築史部会における新しい試みとして、中国天津市薊州区(旧・薊県)に所在する独楽寺と、大阪の主会場、日本・中国・韓国・台湾地区に設けた計11校の分会場をオンラインで結び、天津大学・丁垚氏にご案内・ご講演いただいた。

丁垚氏は、遼・統和2年(984)建立の独楽寺の伽藍配置と歴史的な立地と環境、主要建物の山門と観音閣の様式・構造、内部空間の設計手法など様々な側面から分析を加え、中国遼代建築における独楽寺の意義について、丁寧に語られた。

つづく、質疑応答でも、主会場および分会場の各会場から、多数の質問・意見があがり、活発に意見が交わされた。東アジアの各国・各地域にわたる古建築のオンライン中継は、不動産文化財である古建築の研究における国境を越えた新たなチャレンジとして、成果を上げることができた。

(文責:李 暉)

現地中継の様子(丁垚氏提供)

主会場の様子

 

【質疑応答】2023年3月追記。

Q1.八方に挺出する組物は、日本のこの時代では珍しいと思うのですが、中国では一般的な形式なのでしょうか?

A1.観音閣の四隅の組物は、八方ではありませんが、多方向に挺出しており、直交するものに加えて45度にでるものもあります。中国では、時代・建築類型・規模の大小を問わず、珍しくはありません。また牌坊などのような多角形平面の建築にも珍しくありません。しかし、方形・長方形平面の場合、唐代の仏光寺大殿と比較すれば、観音閣上層の四隅の組物がこの建物の特徴といえます。

 

Q2.日本の古代の重層建築では、一般的に、側まわりに台輪を用いて、積み重ねますが、観音閣ではそれと逆に入側に用いています。その意図などご存じでしたら、ご教示ください。

A2.確かに台輪は、側柱にも入側柱にも使用することができます。しかし観音閣では、外観は以前の形態を維持しており、外観にみえる側柱には台輪を使用していません。一方、内部では空間の高さの調整をおこなっており、入側柱を高くするだけではなく、台輪によって構造的な処理をおこなっています。入側柱にのみ使用するのは確かに珍しいもので、台輪を使用しはじめた早い時期の事例といえます。この前の時期には、腰組の下には使用するものの、軒下には必ずしも使用されませんでした。

 

Q3.山門の土壁の分析で遼代と分かったということでしたが、どのような分析でしたでしょうか?それとも解体された跡がないから当初の遼代と推定したのでしょうか?

A3.山門の柱間の壁は造り替えられたものですが、組物間の壁については、壁体内の植物繊維の放射性炭素年代測定(C14測定)をおこないました。また、建立当初から解体されていないので、当初の構造を保っていることが明らかになりました。

 

Q4.観音閣の貫が唐代のものと分かったのは、なにか特徴があるためでしょうか?それはどのような特徴でしょうか?

A4.観音閣の上下層の階段が交わるところで少し触れましたが、年代測定をおこないました。観音閣にはこのように唐代の部材を再利用したものが多く、もとは別の場所で利用されており、当初の仕口を残すものもあります。

 

Q5.現在の独楽寺は建立当初の伽藍配置をどの程度残しているのでしょうか?時代的、地域的な特色などはありますか?

A5.独楽寺の配置はかなり複雑で、何度か改変されています。少なくとも千年前には、山門と観音閣の関係は現在のようになっていたはずです。さらに時代をさかのぼれば、唐代には大閣がありましたが、山門は現存するものほど大規模ではなかったかもしれません。遼代には、山門と觀音閣の位置関係は現在のようになりましたが、回廊などの有無は不明です。遼代には、すでに城壁が隣に建っていました。その後の元代と明代では、国が寺院と僧侶を国家体制の一部として管理するようになりました。明代前半には、山門や天王殿をもつ禅寺の伽藍配置が現れました。独楽寺もこのような変遷があったかと思います。

 

Q6.清代に観音閣の四隅に支柱を加えたということですが、それより以前では隅の組物の沈下はあったでしょうか?観音閣全体の構造が不合理なところがあるということでしょうか?

A6.支柱の追加は、屋根の垂下によるものと推定されますが、清代の段階で、建立から700年以上経っているので、仕方がないものと思われます。隅組物は形態としてはとても発達していますが、構造上は弱い部分があります。 

 

Q7.観音像の目を見えるのは山門の前だということですが、なぜ山門を通ってから開放的な空間にしなかったのでしょうか?当時は、どのようにこの目線関係を設計されたと思われますか?

A7.山門の基壇に登ると、左右に金剛力士像がみえますが、まだ扉の外にいます。扉が開いていれば、跪いて参拝すると観音像の眼をみることができます。そして敷居をまたぐと、立った高さから観音像の眼が見えます。これは連続的に見上げ視線を意識したものです。敷居をまたぐと、観音像ではなく観音閣の全景をみることとなります。

 

Q8.1933年営造学社の報告書の図面では、2層の柱径が最も細く見えますが、これは正しいでしょうか?2層の柱径が最も細いのであれば、各層の柱径の関係は、3層>1層>2層でよろしいでしょうか?

A8.そうです。いずれの柱も直径40~50㎝ですが、中層は約40㎝で細目になっています。

(回答:丁垚、翻訳:李暉)

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